「原美術館コレクション展」について
昨日は、森林浴と共に、現代美術を鑑賞出来て、最高でした。私は、今回のキーワードを、「空間芸術」としたいのです。緻密に計算された空間は、私の胸に鋭く突き刺さりました。
それでいて、安心感を覚えました。それは、あたかも携帯電話を忘れずに持って来たと言う安堵感にも似たものです。そして、制作者と、Eメールで会話が出来るような気楽さを感じました。
つまりは、彼も吾も現代に生きているのだと言う実感です。これは、ゴッホや、その他の古典の中には、決して見つけられないものです。
もちろん、古典は、古典なりの現代ですが、でも、あの時代にパソコンはなかったのですから仕方がありません。
私は、説明者の言葉を聞くなり、空間を感じ、空間ならば、私たちで、それらを自由に変形しても構わないのではないかと思ったのです。それで、説明者に向かって問いかけました。
作品の中に、『○○が無かりせば』、作品はどんなイメージになるかと。
【マンガ家の制作室の空間。】奈良美智 MY DRAWING ROOM
もしも、人形や、その他のものが置かれていなかったとしたら?配置されるべきところに配置されているのは、作者が、その物体と共に生きているからに他なりません。それでなければ、単なる雑然とした作業室であり、ブレーキの効いた空間は生まれないでしょう。
【淀川の絵巻。】円山応挙 淀川両岸図巻
1本の墨の筆書きの線が、単調な世界に空間と風を生み出しています。下手をすれば、その線は、空間を腹切りにしてしまいかねません。
でも、その線がなかりせばと考えたら、芸術作品とは、呼べないはずです。
【花瓶の空間。】ヴィルヘルム・サスナル 無題
説明者は、言います。影が、四角・三角形だと。しかし、視点を換えて見ればそれらは、花瓶の敷物なのです。その影の形の上にあればこそ、作者が、花瓶に動きを与えられるのです。
単純な光と影としてだけ見るならば、その花瓶は、静物画に過ぎません。私たちは、日常、無意識に動いていない物に、動きを投影させているのかも知れません。
【廊下の空間。】ルイザ・ランブリ 無題
戸口と思しき穿たれた四角形から、何かが噴出して、奥へ、奥へと、見るものをいざなうようでした。その四角形の穴が、人間の居室であったかどうかと考える前に、私は、子どものような好奇心で、洞窟探検をしていました。
【黄色い空間。】草間彌生 自己消滅
強烈な印象を受けました。作者が安住できる世界は、黄色なのでしょう。鍋などを吊るさずに、貼り付けているのは、それが、彼女にとって、安定を意味しているのではないかと思えました。
それに、無数の針穴を穿ち続けているのは、残酷と取るべきよりも、自分が生きている連続性を表現しているのです。それは、私たちでも、男女が、恋愛関係にある場合、相手を思い焦がれる心は、
このような一つ一つの針穴で、確かめあっているのでしょうから。
【数字のマジック。】宮島達男 時の連鎖1989−94
全く、お見事と言うより仕方がありません。遊びなのか、それとも、深い瞑想の世界なのかが判然としません。
数列を、それぞれの範囲で切り取って見るならば、スピード感あり、停滞感もありです。何か、街頭を、「○○ハンターイ」と叫んで行進している不揃いな行列でもあるかのようです。
そして、その騒音を聞きました。この作品に触発されて見ると、人間は言葉を持ち、それを紡ぐことでこの世に存在し得ていますが、その根底をなすのは数式だと気づかされます。
パソコンのC言語も、数字で成り立っていますし、経済は、全て数式です。
【タイル張りの部屋。】ジャン・ピエール・レイノー ゼロの時間
CAD(キャド)を使った設計図の具象化と言いたいです。小さな四角形のタイルに過ぎないのに、それに時間差を与えると、円にも、曲線にも、円柱にもなるとは、驚きでした。
ゴシック建築の教会の内部に居るような錯覚に陥りました。逆に、この黒と白のほのかなコントラストに、光線を当てるとどのような生き物に変身するのでしょうか?
作者は、その可逆性を目論んでもいるとも取れました。
【チビ黒サンボ。】加藤泉 無題
分裂なのか、収斂なのか。多重人格なのか。不思議な虹彩を放っていました。将来、チビくろサンボ・人間が、背負っていく重荷なのか。
形の輪郭だけに眼を移ろわせるだけに終わらせるならば、この作品の意図を理解できないのではないでしょうか。
もうすこし、作品を鑑賞したと思うのですが、記憶を辿れません。
今まで、MARの方々とご一緒に現代アートを鑑賞させていただいて来ました。それ以上に、これからも、もっと多くの現代アートに触れたいと思わせてもらえたのが今回の企画でした。感謝。
ところで、宇宙ステーションの建築を知覚できる現代、また、CGによる三次元を身近にしている私たちは、すでに現代アートの中でしか生きられないのです。
好むと好まざるとを問わず、「KY語」は、巷間に氾濫し、携帯小説が一過性のものだと断じても、それが現代なのです。それならば、その中に心理を見極めるのも、私たちの義務です。
そして、その眼を培わせてもらえるのも、現代アートの彼らによってです。
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